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埼玉県さいたま市で畳屋70年

埼玉県さいたま市で畳屋70年です。お店が大きくなることもなく潰れることもなく^ ^

私の祖父は埼玉県の川島村出身で桶川に家を構え東京新橋の東京タイプライターと言う会社に勤めるサラリーマンでした。

どういう経緯か分かりませんが昭和25年祖父はたたみ関係の知り合いに力を借り脱サラして退職金で当時の浦和市常盤に貸家を借りて川島屋畳店[川島村出身なので]を始めました。

タタミもぬえないのに脱サラして事業を始めるなんて昭和25年世間が血気盛んだったんですね!私の父は次男で中学2年生の時、初代の祖父が夜中心臓麻痺で亡くなってしまいまだ55歳だったそうです

私の父は再婚相手の子供なので祖父が40過ぎの時の子供だったようです

経営がうまくいかなくて借金をかなり残して亡くなってしまい長男の私にとっておじさんが後をとって川島屋畳店を中卒で継いで祖父の残した借金を背負ってがんばりました

祖父の借金はあちこちにあり畳の材料屋さんにも支払えない借金がありそちらは私の父が中学を卒業してから借金先の東京赤羽の大渕商店と言う材料屋さんに住み込みで返済することになりました。長男のおじさんは働いて今で言うサラ金みたいなところに返済して私の父は問屋さんの借金を住み込みで体で返して…お粗末な我が一族の闇の時代です^ ^

私の父は親の残した材料を家の借金を6年間の住み込みで返済して晴れて自由の身になり

もう畳担ぐのは嫌だと東京でタクシーを6年間やりでも母と結婚し私が生まれる時安定した仕事をと!現在の場所で畳屋を開業したのが昭和45年です

ちょうどその時私が生まれました!

私の父はお酒を飲みすぎ働き過ぎて還暦前になくなり父も祖父譲りで後先考えない人だったので我が家は貧乏で私も弟も中卒で働く羽目に…

働くと言っても家業を継ぐのではなく畳屋は仕事がないので外から外貨を稼いでくるようにと父の申し付けで私も弟も鳩ヶ谷の産業廃棄物の会社に住み込みで働きました[1年で母に100万円仕送りしました]

ちょうど同級生が高校に行ってる頃です。

この時代の闇の事は話せば長くなります。

私はこの10代前半が学歴もなく信用もなくお金もなく希望もなく非常に心が不安で将来が漠然で恐怖でした

はっきり言うと今でもその感覚はあります

とにかく働いてお金を稼いで結婚して信用を作って何とか人並みにならなくてはと言う気持ちが10代前半異常にありました!

そのおかげで超難い家庭育ちの大卒の常識ある妻とできて私に足りない分が補えるような人生になり好転し始め真面目にがんばり現在に至ります

私は現在51歳妻は56歳息子は22歳犬1匹と猫2匹…あと何年健康寿命があり何年人生を楽しめるか分かりませんが仕事も前向きにがんばり

いつか自分の人生に終わりが来たとき

自分の人生には意味があったやりがいがあったと感じるように残りの人生過ごそうと思う今日この頃です。

こういう心境のことを終活と言うのでしょうか^ ^

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