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私の苦い青春時代パート①


【 かなりの長文です】
たまには昔のことを書きます!

私の両親はお恥ずかしいですが社会性がなくて

父は飲んだくれでお金を湯水のように使いすぎていつも親戚にお金を借りたりしていました家は貧乏で両親の考えで私も弟も中学卒業したらすぐ外に働きに出されました沈

私の世代は高校中退はいましたが中卒ですぐ働くなんて何か特別な事情があるかじゃないと…

というかほとんどいませんでした

勉強したいと言うよりもみんなと同じように高校に行きたいと言う気持ちが強く

何か高校に行くと明るい青春が待っているような気持ちが私にもあり高校に行きたいと言いましたが父に却下され…お前なんか高校いったってしょうがねーだろ!と言われ

同級生たちが高校で青春している時

中学の担任の熱心な先生が自宅に親の説得に来てくれた時も父はうちの息子は親孝行と言う高校生行かすんだ!と追い返してしまいました。

そんなこともあり同級生が高校に進んだ頃私は父の知り合いのゴミの会社に住み込みで働くことになりました

今考えると結構劣悪な環境で仕事してました

私は社長の家の2階で寝泊まりしていたので
朝4時に従業員10人ほどが社長の家に集合すると私は
全員のコーヒーを入れるのが朝の仕事でした
そうすると社長の指示でゴミトラック 5台程度に乗り分け
家具屋さんのゴミを回収したり
飲食店のビルのゴミ 病院のゴミだったり 
新橋ロータリーの地下のゴミなんかも 全部やってました
毎日ゴミで周っていると浮浪者のおじさんとも仲良くなって缶コーヒーをもらったりまたあげたりしてました(^^) 私と数人は何箇所かゴミを回収しながら 建設省のゴミを取り行くのが日課でした
そうするとまだ薄暗いうちに建設省に到着し 地下2階に行きます

確かそのビルには建設省と運輸省が入っていたと思います 警視庁のすぐ裏側のビルでした

地下2階の廊下は 部屋もなく窓もなく薄暗い電気がついているだけで
トイレとかボイラー室とか電気室とか 工事関係の人がたまに来る程度
職員はめったに来ません

そこの廊下に 牢屋のような部屋があり
その部屋の扉を開けると完全コンクリートに囲まれた6畳ほどの ゴミ部屋空間があり
中に入りゴミの山をかきわけて突き当たりまで行くと
ダスターシュートの穴があります
中の広さは1 M ✕1 M、 上はビルの最上階まで

なんせ 上層階からみんな 相当な人間がゴミを捨てるので
朝行くと数メートルは積もっていて
まずはそのダスターシュートから
手前のゴミ部屋にゴミを引っ張り出すのが大変です
押しつぶされた紙の重さは半端ではなかったです
ダスターショートなのに心ない職員さんが
ガラス瓶を 捨てたりするのでその割れた破片で何度も手を切りました

ゴミと言っても 資料の紙から
海外のお土産洋服から カツラがあったり汚れたパンツ下着 燃えるゴミから危険物まで
人間の心理とは怖いものです
国家一種試験を通ったエリートの方たちも
ここには書けない 酷いゴミをあのダスターシュートにポイポイ投げ込むのです
ダスターシュートも空になってくると
中の壁に無数のゴキブリが張り付いています
これは大げさじゃなくて数1000匹だったと思います
最初は気持ち悪くてこんなとこ入れないと思いましたが
ゴミの仕事とはそういうこと
感覚を麻痺させ ダストシュートに入っていると上からまぁ毎日頭にゴキブリが落ちてきます
それを振り払うのがそのうち何とも思わなくなりました
だから今でも家でゴキブリが出たと妻が大騒ぎすると
私は素手で捕まえます
そしてかわいそうなので表に逃がしてあげます
【 ここまで読んだ人は少ないでしょう(^^) あと残り半分です】

私はゴミを通して 社会の底辺からいろいろ 人間勉強しました

そしてようやく何時間か経ってダスターシュートのものを全部引っ張り出したら
ゴミ部屋に 天井近くまで山盛りになったゴミを 仕分けです

紙じゃない危険物や生ゴミを分けて 大きな台車に詰め込み
トラックに積んで夕方夢の島に捨てに行きます

皇居を横切り 晴海通りを通って歌舞伎座
築地を通過し 海沿いの当時はなかったフジテレビの前を通り
船の科学館の前を通過し 海中トンネルを潜って上がったら
当時東京都の全てのゴミを捨てていた夢の島です
そこは東京のゴミが全部出されるので1日で
学校の校庭が山盛りになるぐらいの量が捨てられました
相当な広さでしたが
次の日に行くと風景が変わるぐらいゴミがすごかったです

会社の先輩に ちょっと時間があるとき 少しいいぞーと ゴミ拾いを許されると
夢の島での ささやかな自由時間

ゴミの山から何か使えそうなものはないか貴重品がないか
5分も歩いて回るとバブルの頃ですから 結構小奇麗な洋服や腕時計を 拾ったりして持ち帰るのが 楽しみな時間でした(^^) 手書きの写真は
当時の建設省地下2階の ゴミ部屋の様子です

ちょうど今から30年ほど前です

畳屋の二代目が聞いて笑います
父の知り合いのゴミ屋に働きに出され
ここで働いたお金を母に仕送りし‥‥ 妻にもうその話100回聞いたから!と言われますが1年で100万円位母に仕送りしました

恥ずかしくて軽蔑されると思ってごく最近までこんな話は誰にもしませんでした

多分全国の畳屋でも私のような生い立ちは少ないと思います

コメント

  1. 全国一位の塾講師 より:

    すごいですね〜。
    そこで社会への反骨精神がきたえられたのでしょうね、